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鉢植えの大きさを考えるとき、いろいろな問題が登場してくる。 また、この問題は人によって考え方が違うから、これを一様に押しつけることはできない。 この間題を考える時、まず、それを強調する人たちの三目い分と、客観的にみたその内容を分析してみよう。 @鉢植えは、素晴らしい老樹・古木の姿や自然の優れた風景を盆上に再現するものだという。 この「定義」は絶対かどうかは別として、ほぼ絶対に近く正しいと思う。 もし、このとおりであるとすれば、正しく表現しうる限り、鉢植えは大きいことを必要とせず、自由に持ち運びできる範囲のものが良いと思う。 Aしかし、小さいボンサイの中に「大自然」を表現する。 これこそ鉢植えの「極意」であるという考え方もある。 これが表現されたもの、そしてこれを強調したもの、それが「小鉢植え」であり「豆鉢植え」であると思う。 B一方、鉢植えの技術には限界がある。 例えば、ある素噌らしい老樹・古木があったとする。 その姿を盆上に再現するとき、全体の大きさはm分91、あるいはum分のーに縮小できて も、葉の大きさや花の大きさ、さらには実の大きさは、その割合に縮小することはまず無理である。 こう考えると、本当に「自然を再現」するのだったら、鉢植えがある程.度の大きさを持つことは止むを得ないと三目える。 この考え方も間違ってはいないと試う。 Cある程度の数の鉢植えを持ち、その質が一定水準を越えたとき、人はこれを他人に見せて「誇らしげ」な気持ちを持つようになる。 これは、当人が意識すると否とにかかわらず、多少なり存在することは否定できない。 その現われが国風展であり、サツキの全国展である。 前ページの枝の短縮技法よりもさらに、プロの裏技といえるのが、ここに示す幹の短縮技法である。 この技法白体の歴史は古く、真柏の山採り全盛時からすでにあったといわれている。 ただそれは一般に公開されることはなく、趣味家が白ら植え替えをする際に、鉢の中の不思議な根の状態から、特殊技法の存在を類推したにすぎなかった。 多くの山採り真柏は、その風雪の厳しい白生地において、絶壁の岩棚から下垂気味に生存していたものである。 つまり天地は逆になっていたのである。 そして崖下を望むように伸びた直線的な立ち下がりは、鉢植え仕立てのうえでの難点となっている。 本来、その幹味を生かせるものなら無理をすべきではないが、文字通り舎利幹の切断はプロの裏ワザである。 接ぐ、蘇える、ほしい所に枝がない。 一枝の枝接ぎで樹は見違えるほど変貌する。 この技術は葉性の衣替えにも。 真柏ではよくその葉性が問題にされる。 葉色、葉組の粗密、杉葉の出やすいタイプなどがその間題点である。 もちろん、培養や肥培、管理によって変化する面もあるが、本来の性質までは変えられない。 そこでまったく別の固体の葉に変えてしまうのが、いわゆる「衣替え」という技法である。 つまり、枝接ぎである。 この技法白体は別に目新しい技術ではない。 しかし真柏の場合、とくに山採り素材で締めて培養されているものは、形成層が薄く、枝接ぎの成功確率は高くない。 このため、衣替えの場合でも、ここに紹介したように樹形構想上どうしても必要な場所に枝がほしい場合でも、複数個所の枝接ぎを試みる必要がある。 そのうちひとつでも成功すれば、真柏では一芽からでも充分な枝づくりの展開が可能なだけに、こちらとしては万々歳なのである。 針金かけ整姿は樹への基本的なしつけ作業である。 しかし待てば樹はやがて、その強制を克服する。 改作、大胆な針金かけや剪定は、樹姿を一変させる醍醐味がある。 鉢植えづくりにおけるもっとも派手で晴やかな一面である。 とくに長く放置された鉢植えや、手入れが不適切であったために樹姿が乱れてしまったものは、改作や整姿によって、一時的に見違えるようになる。 こうした作業は基本どおりに的確な処置をしておかなければならない。 ただこうした作業直後の樹姿は、どうしても人為的な痕跡が残り、鉢植え本来の白然感を取り戻すには、時間を要する。 とかく間違われやすいが、プロが改作を行い、整姿したばかりの樹姿をもってその腕前を判断するのは早計である。 あくまでも整姿後の培養を経て、葉組みがほぐれ、人為の痕跡がうすれ、白然感を取り戻す期間をプロは想定しているのである。 このことは強調しても強調しすぎることのない事実である。 植え替えを含め、整姿剪定を適切な間隔をおいて行うことによって、徐々に樹勢の平均化を計るのが鉢植えづくりの本質である。 そのことによって、徒長枝も出なくなり、日々の手入れも簡略化してくるのである。 |